平成31年度 (2019年度) 基盤研究A(19H00544)

天文学との連携にもとづく考古学・古代史学研究法の構築

明らかにしようとする課題

本研究において解明しようとする課題のうち代表的なものは次の3項目である。

A)「日本列島における方位観の推移」仮説に対する批判的検討

 既述のとおり北條は、縄文時代と弥生時代については太陽の運行との関連性が強く、古墳時代以降は古代中国で構築された天の北極(北辰)を志向した方位決定が加わると理解している。前者は東西方位重視、後者は南北方位重視だといえるが、前者は年間の日の出と日没方位に依拠するため、真東・真西からそれぞれ約60度の扇状を呈する。縄文時代の埋葬頭位には真西から約60度の扇状に広がる事例があり、弥生時代の祭儀施設が夏至の日の出方位に軸を揃える事例や、祭儀施設からみた年間の日の出方位の指標となる嶺峰が聖域化され、かつ夏至と冬至を重視したと判断できる事例がある。沖縄地域においてもグスクの祭儀施設が冬至の日の出方位と揃う事例が複数例あり、祭礼の日取りも冬至であったとの記録がある。

 これらを一括して提示した仮説であるが、時空間を隔てた関連づけには無理があり、かつ実状は多様で単純化は不可能だと予測される。つまり本研究では、北條仮説を批判的に検討し、現実の資料的状況を時系列および空間軸に沿って再整理することになる。また後者についても歳差現象の影響を受けて北辰は直接視認できず、現在の北極星(鉤陳星)と北斗七星の主星である天枢星の周回軌道範囲を“みなし北辰”とした可能性が高い。近畿地方における古墳時代前期の埋葬頭位の状況が、こうした判断の根拠であり、ここから古墳時代における「子」の方角の実体は真北から25°程度の振れ幅をもつ扇状を呈したものと理解する。さらに古代中国では北斗七星の柄の先端が直立したタイミングを捉え、その方角を「子」とする方位決定法「北斗法」(細井2014)が知られ、日本列島における受容や改変の有無の点検が求められる。古墳時代の場合、その方位は真北から東に15度の振れであった。現時点において先の“みなし北辰”と北斗法を抱き合わせた方位決定であった可能性をもつ事例が埼玉県域と岡山県域の前期前方後円(方)墳で認められるが、これら北天の諸星と考古資料との関係についても北條仮説の妥当性や適用範囲の判定を行う。本項目の主眼は、過去の方位観や方位決定法に引きつける形で、天体に対する人類の認知構造の普遍性と地域性の追求を進めることにある。

B)「月信仰基層論」の批判的検討

 考古学や人類学の一部からは、縄文時代社会は死と再生の拠り所を月に求めたとの解釈が提示されている。折口信夫やネリー・ナウマンの論考に代表される月信仰基層論であり、文献史学・考古学・天文学からの点検が求められる。本仮説の主要な根拠は土偶などの祭祀遺物や万葉集など古謡に止まり、遺跡・遺構との関係は不明なため困難な課題であるが、「月」の問題を外すことの根拠もない。そのため考古学では遺構が示す方位の問題として本仮説を定位可能な事例の存否を追求する。また文献史学と天文学では、天から落下してくる物体としての「月の落水」問題を検討する。それは雷電などの大気光学現象、彗星、隕石、火山弾などの落下物の検討を含むが、倭国神話の中には山上の磐座を天から落下してきた「神宮」とする観念がある。これら関連する諸史料と諸事象を総合することにより、本仮説に対するアプローチの領域を拡張する。

C)天体現象を習俗や信仰に取り込む認知過程の整理

 本項目については、高田が収集してきた日本の天文民俗誌・伝承・文芸・信仰等に関する諸資料の再整理を行う。天文民俗誌の代表格は七夕と観月であるが、その実態は極めて多様である。詩歌史料の分析からは、天文景観への着眼が時代ごとに異なる傾向が指摘される。さらに天文に関連する信仰には、妙見信仰のような広域的な潮流がある一方、降星伝説や星井戸、隕石を神体・本尊とする地域信仰など、様々な形態が全国に散在する。これら多様性を帯び変容に富む各地・各時代の状況を比較・分析することを通じ、最大公約数として浮かび上がる宇宙観の歴史的変遷を明らかにする。加えて、その現代的実相を探るための一法として、全国のプラネタリウム館や観望会等を活用した実験心理学的なモニター調査を試行する。

 本項目の主眼は、天文景観との対話の総体でもある民俗的文化的集積の分析から、その特徴と傾向を把握し、いかなる要素や条件、相互作用のメカニズムが、現代日本人の基層的なメンタリティ形成に影響を与えてきたのかを考察することによって、天文景観への包括的認知モデルの構築を目指すことにある。それを雛形とすれば、普遍指標としての天文景観のメリットを活かし、アジア圏や他の世界諸地域との広域比較が可能になる。その実現に向けた目論みである。